スペシャルトーク第2回は「ディアンスの人物像と作品について」。ディアンス本人と直接の交流があった大萩、松尾からはその人柄について、自ら作曲・編曲もする鈴木、村治からは作編曲家としてのディアンスについて、それぞれ語り合われた。手放しでディアンスを讃美するわけでなく、かといって批判に終始するでもない、ギタリストたちの音楽観にも関わる真剣なトークをぜひご覧いただきたい。
出演ギタリスト・スペシャルトーク
ディアンスはなにを遺し(え)たか
鈴木大介 × 大萩康司 × 松尾俊介 × 村治奏一
収録 2017年6月29日都内某所
(聞き手・構成 小川智史 / 写真 宮島折恵)
第2回「ディアンスの人物像と作品について」
――大萩さんと松尾さんはパリ音楽院留学時代にディアンスとお会いしているわけですが、お人柄の印象や、思い出深いエピソードなどはありますか?
大萩 フランス語に厳しい方だったな、ということをよく覚えていますね。学校で会って、あいさつして少し話そうとすると、話の内容より先に、僕がしゃべったフランス語の文法を直されるということがたびたびありました。なかなか話に入れない(笑)
あとは、言われてためになって、今でも気をつけていることがあります。パリ音楽院での卒業試験で、時間めいっぱいプログラムを組んでしまったので、チューニングを急いでしていたんですね。そうしたら、音程が狂っているところがあることに弾き始めてから気づいて、弾いている間中気持ち悪かった。演奏後にディアンス先生が来てくれて「時間をかけてもいいからチューニングはできるだけ正確にしなさい」と言われたんですね。ギターの場合、ヴァイオリンのように指で音程を調整できる楽器とは違い、最初に正しくチューニングされていないと狂ったままになってしまうから。だから今でも、チューニングは慌てずにやるようにしています。
鈴木 ディアンスが演奏の途中でチューニングしなおしているコンサートの映像なんかもあるよね。そのまま続きを弾いちゃう。
松尾 すごくセンシティブな人ですよね。大萩君の言ってた文法の指摘は僕もあって、メールを送ると、打ち間違えたところとか、文法的に正しくない箇所の色を変えて返信してくるんですよね。
――校正しちゃうんですね(笑)
松尾 多くの人は〈タンゴ・アン・スカイ〉とか〈フォーコ〉のような派手な曲を通して作曲家を知っているわけじゃないですか。それが実際にお会いするとすごく静かな話し方をしている。逆に作品のイメージ通りだなと思う部分は、話すフランス語がすごく複雑だということですね。ひたすら関係詞節が後ろに続いていく。
――おふたりはパリ音楽院の先生はオリヴィエ・シャッサンですが、ディアンスのレッスンを受けることはありましたか?
大萩 残念ながら僕はその機会はありませんでしたね。
松尾 僕のときは生徒交換レッスンのイベントがありましたが、試験前の時期だったのでポンセかバッハか、クラシカルな曲を持っていきました。それにディアンスは、あまり自分の曲を弾かせたがらない人でしたから。「スラーがきれいに鳴るような肌の使い方をしなさい」とか、とてもデリケートな内容のレッスンでしたね。ノイズをなくすことに関しても徹底していました。
――インタビュー記事の受け答えの印象などだと「自由人」として振舞っているようにも見えますが、実際にはとても神経質な方だったんですね。
大萩 でもやっぱり、譜面を見てもそうですよ。すごく神経質な譜面の書き方をする。
松尾 楽譜の中に「シル・ヴ・プレ(お願いします)」って書く人、彼の他に見たことないですからね(笑)。あとは、とても「お洒落」な音楽を書く人ですよね。実際に本人もすごくお洒落だし。曲のなかにどこかしら、クスッとしてしまうような部分も入っている。CD『トリアエラ』(ベルウッドレコード)でまとめてディアンスの作品に取り組んでみて、そういう部分は見えてきた気がします。
――大介さんと奏一さんは、ご自身でも作曲や編曲をされていますが、そういう視点で見て、ディアンスはどういうギタリストに映りますか?
村治 僕も最初にディアンスの「かっこよさ」に惹かれていろいろな曲を弾くようになったわけですけど、自分で作曲・編曲をするようになると、和声学や対位法も意識するようになる。そういう楽理的な側面からディアンスのパッセージを再現できるかなと考えてみたら、できないんですよね。全然味が出ない。なんでこういう音の並びになって、なんでこういう風に響くのか、それにどうやって気づいたのか、ずっと疑問のままですね。恐らくそれは天性のものだと思う。
――ギタリスト作曲家ではよくあるような、「手癖」による書法とも違うわけですね。
村治 それとも違いますね。理論的でもあるんだけど、そこにお洒落なエッセンスが加わってて。完全に直感だけで書かかれているタイプの音楽ではないですね。真似できないなと思う和音がたくさんある。
大萩 確かに、聴いてすぐ「ディアンスだな」と思う音がいつもどこかにありますね。
――大介さんはいかがでしょうか?
鈴木 編曲家としてはとても敵わないですね。最初は「弾きづらい」と思うのに、一度覚えてしまうと自然と弾けてしまう。今奏ちゃんが言ったことと関連するんだけど、すごくロジカルな部分と、天性のセンスが感じられる部分、そしてギタリストが本能的に持つフィジカルな部分が、うまい具合に繋がっているんですよね。「こんな複雑な譜面書きやがって!」と思って実際にステージで弾くと、自然に手が動くんですよね。やさしく編曲してもなかなかそうはならない。俺はどちらかというと理論的に書いていくので、一瞬考えなければいけないような場面もあるんですが、ディアンスの場合は体が覚えているんですよね。
――一見弾きづらそうに見えてそうではない。そういう意味で「ギタリスティック」とも言えるんですね。
鈴木 この前、ディアンスが書き遺したピアソラの編曲が公開されていましたよね。〈天使のミロンガ〉とかあった。
松尾 〈アディオス・ノニーノ〉は6弦をBにしてましたね。〈オブリビオン〉とかもあった。
鈴木 つい最近出版もされましたが、《ブエノスアイレスの四季》とか〈リベルタンゴ〉とか、すごい数の作品がある。
――名曲ばかりですね。
鈴木 でも読む気のなくなるような複雑な譜面でした(笑)
松尾 あの人の自筆はウニョウニョですよね……(笑)
鈴木 それも弾いているうちに体のなかにすっと入っていくのかもしれませんね。
大萩 ギター合奏用にラヴェルの〈ボレロ〉を編曲していたというのも聞いたことがありますね。
――作曲家としてはどう思われますか?
鈴木 もちろんすごい人なんだけど、こんなに小うるさく書き込みをしなければ、もっとたくさん曲が書けたんじゃないかなとは思いますね。作曲家として高い能力を持っていた人だと思うんだけど、実践に対して神経質すぎたんじゃないか、と。
――もっと大雑把でもよかった、ということですね。
松尾 ディアンスは編曲の場合だと、普通ギターでは考えられないようなことをあえてやりますよね。和音の変わり目の重要な音を開放弦で鳴らすために、弾きにくい調で書いたりする。
鈴木 変な調で始まる曲あるよね(笑)
松尾 その代わり盛り上がるところで一気にパワーを発揮する。本人はその瞬間を狙ってニコニコしながら書いたんでしょうね。そういうシステムが、作曲作品にももっとあったらよかったなぁとは思います。書き込みで細かく指示するより、こちらの書法を活かしてほしかったというのが今となってはある。
鈴木 作曲という意味では、ギターだけじゃなくてもっといろいろな楽器やオーケストラのための作品を書く機会があったら、さらに高いレベルの作品が書ける能力はあったと思いますね。それを出し切らないまま亡くなってしまったという印象はあります。やっぱり細かく指示することに神経を注ぎすぎた。
大萩 自作品に対しては、自分が考えているように演奏してほしい、という気持ちが強かったのかもしれませんね。
松尾 ディアンス本人が言ってたのが、何も書かずにいたらヘンテコな演奏がたくさん出てき過ぎてしまったから、そうならないように書き込みをした、というのは聞いたことがあります。
でも、〈ヴァルス・アン・スカイ〉で、書いてあるのとは違う弾き方を本人の前で演奏してみたら、「その弾き方もいいな」って言ってくれたんですよね。一方で「俺はこうやって弾いてる!」とていねいに教えてくれて、その雰囲気が、まるでギター少年みたいというか、ニコニコしながら自慢するように言うんですね。作曲家自身が。だからもしかしたら、楽譜に書いてある細かい書き込みも、「絶対にこう弾きなさい」という意味の書き込みじゃなくて、「俺だったらこう弾くぜ」っていうニュアンスの書き込みなんじゃないか、と思うようになりましたね。ディアンス自身、演奏者でもあったからかと思います。
――かつてのインタビューでも、自分の想像を超えるようなことをしてほしい、という趣旨のことは言っていますね。
鈴木 作曲では常についてまわる問題なんだけど、世の中にはセンスの合う人と合わない人がいるからね。これに関してはどうにもできなくて、その覚悟を決めることが「出版する」という意味でもある。ディアンスのように自分の演奏を残せたらまだいいほうで。
――バッハやベートーヴェンの演奏は今は残ってないですからね。
鈴木 いや、自分で演奏もしていた彼らはまだいいほうで、現代では、自分では実演できない楽器のために作品を書かなくてはいけない作曲家がたくさんいますからね。
例えば武満さんの作品なんかでも、あるギタリストは「どんな弾き方にもおおらかだった」と言うわけですよ。まだ武満さんがご存命のときに、録音をするために「武満さんは〈すべては薄命のなかで〉だったらどなたの演奏が一番お好きですか」と訊いたことがあったんです。そうしたら「いろいろな良い演奏があるけど、最近聴いて良かったのはこのギタリストかな」と、ある海外のギタリストの名前を挙げられたんですね。CDを買って聴いてみたら、最初のハーモニクスの音程からして間違えている(笑)
松尾 それはすごい(笑)
鈴木 そのときに、「大事なのは雰囲気なんだな」と思ったんですよ。雰囲気があっている人に対してはすごくおおらかになる。逆に、別の人に武満さんのことを聞いたら「一音でも間違っていたらカンカンになって怒る人だった」と言うわけですよ。
松尾 センスと波長の問題ですね。
鈴木 オーケストラの中でクラリネットが一音間違えているのを厳しく指摘した、なんていうエピソードもあったような方ですからね。「武満さんの音楽は厳格なんだ」と考えている人もいる。だから、波長の合わない人に対しては厳格だったのかな、と思うんですよ。ディアンスもそういう部分は絶対にあったと思う。ディアンスが俊介の弾き方におおらかだったのは、センスが合う弾き方をしていたからでしょうね。波長が合っていた。俺なんかは大雑把だから「そういうところに労力を使っても仕方ない」と思ってしまいますね。そのハードルを下げてもっとたくさん曲を書いてほしかった。
松尾 自分のことをジャズメンだと言うような人でもありますからね。テンポを守る指示があるところでリタルダンドをかけたら、逆にすごく喜ばれたこともあった。それだけ、感性で音楽している部分もあった人なんだろうと思います。幅広い面も持っていたのに、書くとなると神経質になってしまう。矛盾した欲望を持っているというか。
鈴木 他人の演奏に失望する機会が多かったのかもしれませんね(笑)
松尾 ですね。それはすごく多かったんだろうと思います。
鈴木 ディアンスの半分ぐらいの年齢の人たちが自然とわかるようなことが、同世代の人だと全然理解されなかったり、ということもあったかもしれませんね。ディアンスが作曲を始めたころはまだセゴビアも存命で、その影響の中で作品を作っていた。そんな環境でクラシックギターをしていても、バーデン・パウエルとかジスモンチなんか聴く必要もなかったはずで、そのバックボーンを踏まえずに演奏して「どうだ!」と言われても、がっかりするだけだったと思うんですよね。
――実際問題、ディアンスの同世代よりも、彼より若い世代のほうに多く演奏されていますね。
鈴木 わかる人は勝手にわかりますからね。音楽ってそんなものだと思う。