スペシャルトーク第3回「ディアンスとジャズとソル」

最終回となるスペシャルトーク第3回は「ディアンスとジャズとソル」。ディアンス自身の話題からさらに広がり、ディアンスと関わりの深かった音楽やディアンスが好んだ音楽を通して、彼の音楽観に深く迫っていく。最後は現在のディアンスの評価に関してや、本公演「ディアンス・ナイト」の意義にも触れつつ、座談会は締めくくられる。3回にわたる出演者たちのトークをご覧いただいたみなさんは、よりいっそうコンサートをお楽しみいただけるだろう。

 

出演ギタリスト・スペシャルトーク
ディアンスはなにを遺し(え)たか

鈴木大介 × 大萩康司 × 松尾俊介 × 村治奏一

収録 2017年6月29日都内某所
(聞き手・構成 小川智史 / 写真 宮島折恵)

 

第3回「ディアンスとジャズとソル」

 

――奏一さんはディアンスの作曲作品も編曲作品も取り組んで、その影響でディアンス作品に惹かれた、さらに若い世代というのがたくさんいると思いますが、それについてどう感じますか?

村治 そういうことはまったく考えずに弾いていましたね。〈フォーコ〉は先ほど言ったように大萩さんの演奏に惹かれて弾くようになったのですが、編曲作品なんかは、その時期ちょうどジャズに興味を持ち始めて弾き始めたという経緯があります。ディアンスが良い編曲のジャズ作品をたくさん用意してくれていたので。

――ジャズということだとボグダノヴィチ*も積極的に取り入れていますね。
*デューシャン・ボグダノヴィチ(1955-)〈ジャズ・ソナタ〉〈ジャズ・ソナチネ〉などを作曲しているディアンスと同い年のギタリスト

村治 ボグダノヴィチもいろいろ弾きましたが、若い子が僕が弾いたボグダノヴィチの作品を弾いているのを見たときのほうが正直嬉しかったですね(笑)。ボグダノヴィチはジャズの要素を使いつつも、オリジナル作品に仕上げていますからね。ジャンルに興味があるのではなく、その音楽の方向性に同調してくれているというのが伝わったので嬉しかったです。

鈴木 ディアンスは、アドリブ能力はどのくらいあった人なのかな?

松尾 ディアンスの日本ツアーで共演したとき、何度かリハーサルをして本番を迎えるわけですが、一度も同じ伴奏してはいなかったですね。もしかしたら全部覚えていただけなのかもしれないですが……。

――実際かなりアドリブ能力のある方だったと思います。最後に来日した2013年のマスタークラスで、自作品で受講した生徒さんがいたんですね。その楽譜はその日初めて見たはずですが、瞬時に音符を直しながら弾いていて、なおかつ明らかにブラッシュアップされているのがわかりましたから。和音を中心に音を変えていましたね。

鈴木 それはたしかに能力ありますね。

村治 僕がディアンスのマスタークラスを受けたとき、次の生徒が〈タンゴ・アン・スカイ〉を弾いていて、「マスタークラスの締めにふたりで〈タンゴ・アン・スカイ〉を演奏しよう」ということになったんですね。それがすごくかっこ良くて、スタンディング・オベーションということはありましたね。

鈴木 それは行く先々でネタとしてやっている可能性があるな(笑)
例えば、ディアンスの〈オール・ザ・シングズ・ユー・アー〉の譜面を見たとき、ジャズってこんなに緻密にアレンジして弾いていいものなのか、というのは弾き手にも聴き手にも疑問に思う人がいたと思うんですね。でもむしろ今は、ジャズのほうが決まったアレンジと譜面を作る方向に進んでしまった。今のジャズのレコーディングは、録る前にアレンジをばっちり決めてしまったから、それをなぞるように演奏する、ということが少なからずあります。だから、ディアンスが〈オール・ザ・シングズ・ユー・アー〉をあれだけ緻密にアレンジしてしまっているのを聴いても、今のジャズのプレイヤーはなんとも思わないかもしれませんね。

――それも皮肉な感じがしますね。

大萩 いずれディアンス作品を演奏するジャズメンが現われるかもしれない(笑)

鈴木 それは出ないとも限らないね!(笑)

大萩 だとすると時代の先を行っていたことになりますね。

鈴木 同時代に対して非常にアグレッシブなことをやっていたから、周りから理解されないというか、周りから疑問をぶつけられることが多かったのかもしれませんね。

――作曲家と演奏家の分離や、譜面に縛られて弾くことなど、ディアンス本人はクラシック音楽の「風習」で嫌っているものが多くあるとインタビューでも答えていて、ジャズに希望を見出している部分もありましたが、時代はそうは進まなかったということですね。

鈴木 クラシック音楽でも、例えばファジル・サイのような新しいタイプの才能が出てきているわけですからね。ディアンスの時代のギタリストは、前の世代から押し付けられた「しがらみ」がたくさんあって、そういうものと一つひとつ戦って、解きほぐしていかなければいけなかったのかもしれませんね。でもやっぱり、もっと純粋に、例えばピアノの曲を書くとか、弦楽四重奏を書くとか、できることはたくさんあったと思うんですよね。

――ディアンスがクラシックやジャズだけじゃなく、ブラジル音楽に傾倒したり、シャンソンやタンゴに積極的に取り組んだりして、扱うジャンルをどんどん広げていったのは、「戦い方」のひとつの方法ではあったように思えます。これだけ多くのジャンルに取り組んだギタリストはそう多くはないので。

鈴木 実はディアンスのコンサートって聴いたことがないんだけど、どういうものを弾いているのかな。

松尾 ときおり自分の作品を入れながら、いろいろなジャンルの編曲をメインに弾いていましたね。あとは、自分でも言っていましたがディアンスは「ソル狂」なので、ソル*は必ずプログラムに入れていたようですね。
*フェルナンド・ソル(1778-1839)クラシックギター音楽の礎を築いた古典派ギタリスト、作曲家。

鈴木 たしかに、ディアンスは生き方としてソルを目指していたのかもしれませんね。

松尾 そう見えますね。彼がミュージシャンとして扱うジャンルをどう広げていこうとも、中心には必ずギターがあって、ギターをどう使おうか、ギターをどう演奏しようか、常に考えている。だから今のような譜面が遺されたのかな、と思いますね。

――そういう意味でもソルと似ていますね。作品番号はギター作品にしかふらない。バレエ曲で成功してもギターをやめない。活動の中心も同じパリですし、フランスのギター文化に誇りをもっていることを感じさせるインタビューもあります。

鈴木 純粋にソルの作品自体も好きですよね。でも、ソル作品をアンサンブルにアレンジしたりとか、関わり方がちょっと変わっている。全作品に取り組んで校訂とか録音とかはしない。ソルへの愛が強いのはよくわかるんだけど(笑)

松尾 ウィットというかジョークのネタというか、「遊び」にしているような感じのところがありますよね。

鈴木 作曲家の人がモーツァルトで遊んだりはするけど、決してモーツァルト弾きにはならないのと同じようなことなのかな。

――ディアンスのそのような「不真面目さ」が、ディアンスに対する印象や評価と決定的に関わっているのかもしれませんね。

鈴木 例えばブローウェルを好きな人は本当に好きで、神様のように考えている人もいるけど、ディアンスはそういうふうに語られることは少ないですよね。でも冷静に考えてみると、20世紀後半に活躍したギタリストで、これだけいろいろな演奏家に作品が弾かれている人がどれだけいるかと言ったら、ほとんどいない。この座談会の雰囲気にも表われているかもしれないけど、ディアンスのキャラクターって、そういうことなのかもしれません。自己分析が行き届きすぎていて、クールなところがあるから崇拝の対象にはならない。崇拝の対象になるには、捉えやすいようなキャッチーな部分も必要になるけど、ディアンスはいつもやっていることが複雑で一面的じゃない。自己防衛的な屈折したところも匂わせつつ、それが作品内部のインテリジェンスとも関わっている。

――斜に構えたようなところがありますよね。決して「学級委員」ができるようなキャラクターではありません。

鈴木 その意味では、まだ評価がされきってないのかもしれませんね。

松尾 つかみどころがないところがありますからね。崇拝しやすい音楽ではない。

鈴木 でも崇拝される人は死んだら影響力がガクッと落ちる。ディアンスは死んでも、「あれ死んだのか」みたいな感じで、わりとあっさりしてる。「でも曲があるからいいや」みたいな(笑)

――この公演のような、メモリアルコンサートを企画している人も、たぶん多くないような気がします。もしかしたらフランス国内ですらやられないかも……。そんな「ディアンス・ナイト」ですが、コンサートを楽しみにしているファンの方々に向けて、みなさんから最後にひとことお願いします。

大萩 ディアンスを集中的にやろうとすると自然とこうなるのだと思いますが、プログラムが彩り豊かですからね。楽しんでもらえると思います。

鈴木 ディアンスの自作品だけじゃなくて、ディアンスがリスペクトした音楽家の作品群が聴ける、というのもディアンス・ファンにとっても面白い部分だと思います。今回はピシンギーニャも弾きます。

村治 僕は〈フェリシダーヂ〉は最近でもアンコールで弾いたりはしますが、《リブラ・ソナチネ》は久々なので、楽しみですね。それと実は〈タンゴ・アン・スカイ〉は初めて弾きます。

鈴木 え、本当に!?

村治 姉がよく弾いているので、それで弾かなくてもいいやと思っていたのかも。

松尾 プログラム全体としても、ひとりの作曲家で曲を組んでこれだけバリエーションがあるのは面白いと思います。ぱっと聴いただけでもそれぞれ印象が違っていて、同じカラーの曲がない。でも、全編通して弾いていくなかで、どこかに「ディアンス像」のようなものが結ばれる瞬間を聴いてもらえると思います。

鈴木 ディアンス本人はどう思うかはわからないけど、単純に「こんなかっこいい曲を書く人がいるんだな」と思ってくれる人がいて、弾いてみたいと思ってくれたら、それで成功かな。「ディアンスかっこいいんだぜ」というのを聴いてもらう、そういう趣旨のコンサートということでいいんですよね?

――はい、もちろんそうですし、プログラムもそういうタイプの曲を揃えています。ただ、幅広い視点からディアンス作品を理解しているみなさんが弾くと、かっこいいだけじゃない、ディアンスらしい「深み」も自然と表われてくると思います。そういった部分での良さもぜひ、コンサートに来てくださった方々に感じとっていただけたらいいですね。

大萩 がんばります!

 

第1回「ディアンス作品との出会い」を読む

 

第2回「ディアンスの人物像と作品について」を読む