存命であればローラン・ディアンスが62歳の誕生日を迎えていたこととなる2017年10月19日、東京の豊洲シビックセンターホールで、日本を代表する4人のギタリストが集結し、亡きマエストロの作編曲作品を集めたメモリアルコンサートを行う。コンサート開催にあたって収録したこの座談会は、ディアンスの人物像や、彼の作品がなぜ多くの人々を惹きつけるのかを浮き彫りにし、コンサートの趣旨をより鮮明にするために行われたものである。結果的に話題はディアンスのことのみにとどまらない内容へと広がりを見せ、ギタリストたちの音楽に対する姿勢が垣間見えるものとなった。最後は思わぬ結論へと向かっていく座談会の模様を、全3回にわたってお届けする。
出演ギタリスト・スペシャルトーク
ディアンスはなにを遺し(え)たか
鈴木大介 × 大萩康司 × 松尾俊介 × 村治奏一
収録 2017年6月29日都内某所
(聞き手・構成 小川智史 / 写真 宮島折恵)
第1回「ディアンス作品との出会い」
――本日はお集まりいただきありがとうございます。まず伺いたいのですが、みなさんはディアンスの訃報をどこで知り、どのように感じましたか?
村治 知った経緯はSNSでしたね。
松尾 僕もSNSでした。
大萩 最初はフェイク・ニュースかと思っていたのですが、どうやらそうでないらしいということがわかって、驚きましたね。
松尾 そのちょっと前に、ジュリアン・ブリームが亡くなったっていうフェイク・ニュースがSNSであったと思うんですけど、僕も「またデマか」と思いつつ、一応フランスの友人に電話をかけてみたんですよ。そうしたら「タチの悪い冗談だと思いたいけど今回は本当なんだよ」と言われて、びっくりしましたね。
村治 体調が悪そうなイメージは昔からなんとなくありましたけどね。アメリカのマンハッタン音楽院でマスタークラスを受けたときも、前日に体調を崩されて、ボロボロの姿でレッスンしていたことがあって。
鈴木 奏ちゃんもディアンス本人に会ってるんですね。俺は会ったこともないし、オリジナル作品はレコーディングをしたことがないから、なんでこの場にいるのか不思議で……。でも、《リブラ・ソナチネ》の日本初演は実は俺なんですよ。「だからどうした」という感じですが(笑)
――ディアンスが亡くなってすぐに、ブログで書かれていましたよね。
鈴木 まだ18歳の、大学1年のころでしたね。
松尾 早いですね。僕なんかまだギター始める前だ。
――大介さんが最初に取り組んだディアンス作品は《リブラ・ソナチネ》だったのですか?
鈴木 いえ、〈タンゴ・アン・スカイ〉ですね。1985年か86年くらいに福田進一先生がラジオで弾いてて、すごい感動したんですよ。そのあとすぐに楽譜を手に入れました。高校生のころにはすでに〈タンゴ・アン・スカイ〉を弾いていましたね。
――早いですね!
鈴木 そのころ来日した海外のギタリストがアンコールで「今ヨーロッパでとても流行っているかっこいい粋な曲があるんだぜ」って得意そうに弾き始めたのが〈タンゴ・アン・スカイ〉だったんですけど、会場にいた人の大半が知っていました(笑)
松尾 大介さんが高校生というと……。
鈴木 1986年ころかな。
――楽譜が出版されたのが1985年なので、やはりかなり早い時期から取り組まれていたことになりますね。
鈴木 実はさらにその前、中学3年生で清里スペイン音楽祭に参加したときに、周りの人が自分のおすすめの曲をまとめたテープを持ってきていて、ディアンスの自作自演のテープを聴かせてもらったんですよね。そこで《リブラ・ソナチネ》なんかも聴いた。あとは〈ジョルジュ・ブラッサンズ賛歌〉っていう、弦楽四重奏とギターという編成のシャンソン歌手へのオマージュ作品があって、福田先生に聴かせてもらったのを覚えていますね。
――ディアンスがまだ30歳になったばかりのころですが、福田進一さんの影響でディアンス作品をいち早く知っていたわけですね。
鈴木 だから弾きすぎて逆に興味を失ってしまった部分もあります。10年後くらいには若い人みんなが弾き始めちゃったから。
大萩 僕がディアンス作品と出会うのがまさにその10年後くらいですね。やっぱり僕も〈タンゴ・アン・スカイ〉から始まって、次に《リブラ・ソナチネ》をやって、という感じで。高校の文化祭で〈フォーコ〉をやったときは盛り上がりましたね。
――大萩さんはどのような経緯でディアンスを知ったのですか?
大萩 そのころは月に一回、福岡のフォレスト・ヒルへレッスンを受けに行っていて、先輩たちがいつも新しい曲を探しているのを見ていたんですね
福山仁さん、松下隆二さん、池田慎二さんたち。彼らが弾いているのを聴いて、「かっこいいな」と思って楽譜を買って、新しい曲を弾き始めるということが多かったですね。《リブラ・ソナチネ》を知ったのも同じ経緯だったと思います。
村治 僕が初めてディアンス作品に触れたのは大萩さんの演奏でしたよ。福田先生がフルートの工藤重典先生とフランスのモルジーヌで開催していたマスタークラスで大萩さんが《リブラ・ソネチネ》を弾いてくれて。そのあと「弾いてみて」って楽譜をわたされました。
鈴木 え、そうなの!?
――そんな直接的な影響関係があったんですね!
村治 それまでも、周りの人が〈タンゴ・アン・スカイ〉を弾いているのを聴いていましたが、あまりにも弾かれすぎちゃって「今はいいかな」と思ってしまっていましたね。そういう中で大萩さんの〈フォーコ〉を聴いて「弾いてみたい」と思ったんです。
――いつごろのことでしょう?
鈴木 モルジーヌは俺はその前の回に参加していたけど、たしか1994年だから、奏ちゃんたちが参加したのは1996年とかじゃないかな。
松尾 僕もその1996年のモルジーヌに参加していましたが、その前の年に、沖縄のムーンビーチでの室内楽講習会に参加して大萩君からディアンスを教えてもらいましたね。それまで本当にクラシックの曲しか知らなかったのですが、大萩君がかっこいい曲をいっぱい弾いているから、「それなんていう曲なの?」って訊いて、曲目リストをもらいました。そのリストのトップにあったのがディアンスでした。
鈴木 康司はネタの宝庫だったんだ。
大萩 他のクラシックの楽器だと、新曲がそんなに流行るということがなかなかないですもんね。ギターの良いところだと思います。
松尾 奏ちゃんは東京でギターの情報も溢れていたと思うし、大萩君も周りにそういう先輩たちがいていろいろなことを知っていたと思うけど、京都でひとりギターを弾いていた僕なんかは、初めてディアンスを聴いたときの衝撃っていうのはすごく大きかったですね。タレガとかソルとかダウランドとか、そういう曲ばかり弾いていましたから。
鈴木 でも今は「ちびっこディアンス問題」というのもありますね。一度発表会で聴くとそれに毒されてしまって、クラシカルな曲を勉強しないでずっとディアンスばかり弾いちゃうような子もいる。俺らおじさん世代は、そういう子どもたちに対しては、ちゃんと基礎をやって、その上でディアンスを弾くからこそ奥行きのある演奏ができるようになるんだよ、っていうことは教えていかなくちゃいけない。教室でディアンスに取り組むのを禁止すべきじゃないかと思うことすらあるよ。1年に1曲まで、とか(笑)。ディアンスのような曲を弾くのは、いわば「高級な大人の遊び」のようなもので、音楽的な基礎、例えばハーモニーのことをわかっていないとできないこともある。ディアンス自身がそういうところを工夫して書いているわけだから。
――その意味では、みなさんは理想的なタイミングでディアンス作品に出会ったと言えるのかもしれませんね。
村治 今回の公演ではできませんが、ディアンスと古典的な作品を対比するようにしてプログラムを組んでみるのも面白いと思いますよ。